Toshiharu Fujii
アートギャラリー
メンタルのきつい仕事も先週で終了したので、久々に裏山から高松山に登ってみることにしました。1枚目の左下の曲がった鉄パイプは東名高速道路の街路灯です。全て富士山ですが、低いところから撮影し始めたので、富士山の両裾は山北町の中心にある浅間山と丸山に阻まれて見られません。登っていけばだんだん富士山の全景が見えるようになります。といっても高松山は海抜にするとたかだか801mで、その最初の200m位なので、富士山もあんまり代わり映えしません。しばらく山にも登らなかったので、体力もすっかり衰えてしまいました。まずは低山登山からのリハビリです。covid-19も5類に落ち着いたことだし、来年は富士登山を再開したいものです。
現在では京都と奈良の県境に位置する浄瑠璃寺です。
平安時代末期の世情不安の中、極楽浄土を夢見る浄土信仰がたかまりをみせると、浄瑠璃寺の境内に横長の阿弥陀堂(国宝)が建立され、九体阿弥陀如来像(国宝)が安置されました。お堂の扉は、各阿弥陀像に対応するように配置され、後世檜皮葺きの屋根を瓦葺きに変更した時点で中央に向拝が設置されたようです。平安時代には、京都を中心にして30か所ほど九体阿弥陀堂が造られたと云われますが、現存しているのは浄瑠璃寺だけです。残念ながら九体阿弥陀如来像は国宝なので、撮影禁止でした。
九体阿弥陀如来像(国宝)が安置されたお堂と薬師如来像が安置されている三重塔が東西に位置しており、その間にある湧き水で作られたという苑池は上空から見ると梵字の阿の字を形取っているそうです。
山奥にあるせいか国宝や重要文化財が多数安置されているのにあまり知られていない寺です。建物の荒廃や毀損が目立ちますが、景色の素晴らしい寺でした。
因みに浄瑠璃寺というからには浄土真宗かと思ったら真言律宗だそうです。
金剛峯寺は真言宗の総本山です。高野山真言宗三千余時の総本山で、信徒は約一千万人います。宿坊は金剛峯寺の分寺になりますから寺号ではなく院号を使います。私の生家の花蔵院はそのさらに分寺になりますから寺号など恐れ多くて名乗れません。現在真言宗には18の本山があり、だいたい古義真言宗、新義真言宗、真言律宗の3つに大別されます。厳密にいうと私の生家である花蔵院は古義真言宗東寺派なのですが、京都の東寺ではほとんど修行ができないので、高野山で修行をすることから古義真言宗高野派にも属しています。どちらも開山は空海ですから両方属してもよいことになっています。空海も「心は東寺、体は金剛峯寺」とおっしゃったそうです。因みに金剛峯寺は「こんごうぶじ」ではなく正しくは「こんごうぶうじ」と読みますが、ネットで調べてもパソコンで変換しても「こんごうぶうじ」はありません。金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶうろうかくいっさいゆがゆぎきょう)というお経より名付けられたから「こんごうぶうじ」が正しいと教わったのですが、高野山内だけの呼び名なのでしょうか
予定では2日に1回のペースで配信して11月中に高野山の写真をあと10回くらい配信したいと思っていたのですが、精神的プレッシャーの高い仕事が重なり延び延びになってしまいました。そうやって毎年最後は配信せずに終わってしまうので、今回は季節遅れても最後まで配信しようかと思っています。
大上伽藍、大塔に続く通称蛇腹道です。名前の由来は両側に覆い重なる楓の下道が日に照らされ影を作り蛇の腹のように見えるからだそうです。紅葉が見たくて毎年この時期に訪れるのですが、この5日後には紅葉に雪が積もったそうです。気がついたら都会もすっかり冬になってしまいました。
こちらは翌朝の高野山中門です。ナイトツアーでは撮影できなかった紅葉が朝日に輝いていました。中門の裏側には断じて悪を許さない、後ろには引かないということを前にしか飛ばない昆虫のトンボで表した増長天と鳴き声を遠くまで響き渡らせて悪を退けるということを昆虫のセミで表した広目天の立像があります。そして中門をくぐってすぐ左には六角経蔵があります。六角経蔵は基壇のあたりについている把手を手で押して回すことができます。 時計回りに一回りさせると一切経を一通り読んだ時と同じ徳を得ることができますが、反対に回すと得を失うそうです。
夕食後夜の中門を散策しました。根本大塔から蛇腹道、霊宝館の紅葉を撮影してみたかったのですが、夜の紅葉は撮影できませんでした。スマフォで撮影された方の紅葉は綺麗に撮影できているのに、ポケットカメラでは限界のようです。翌日に期待します。
今朝の畑です。幾分寒くなって厚着をするようになりました。明日は中学時代の同級生が蜜柑狩りに訪れるのでBBQの支度をせねば!鬼柚子は大分大きくなったので、小出しに砂糖煮にしている。キュウイはいまいち、ベニアズマはお子さん方ように1蔓だけ残してあるが、最盛期は過ぎたので、イモはもう苦いかな?今年は古くからあった蜜柑の木が2~3本枯れてしまった。いきなり枯れ出したので、私はカミキリムシかと思っているのだが、兄は暑さと日照りが原因だと言っていた。マア明日の蜜柑狩りの分くらいは十分あるだろう。それよりも今晩のWEB会議の資料が間に合わないどうしよう。
一の橋から先はパナソニックや江崎グリコ等社員のための供養碑や諸大名の供養塔が続きますが、奥の院の御廟橋(ごびょうばし、もしくはみみょうばし)から奥は弘法大師がお休みになっている神聖な場所なので撮影禁止です。私はミーハーなので、そこは飛ばして平和橋から中の橋までの紅葉を配信いたします。中の橋からは柳家金語楼さんの落書き塚やロケット、シロアリの供養塔などユーモアに富んだユニークな供養塔が立ち並んでいます。ご興味のある方は是非ご参拝ください。
大門から東に2kmほど進むと奥の院に繋がる一ノ橋です。
この参道の両脇には高名な大名や企業・団体。他宗教の供養碑があります。
入り口にある白いモニュメントは特攻隊の供養塔でその右奥に鶴田浩二さんの供養碑があります。死んだら特攻隊の供養塔のそばに分骨してくれという遺言だったようです。
そこから道は二つに分かれて右に進むと大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)という、中国で景教けいきょう(ネストリウス派キリスト教)が流行ったのを記念して建立された石碑があります。空海が中国で密教を学んだ時代、長安は東西の文化が集まる巨大な商業都市であり、宗教も密教だけでなくキリスト教や回教などあらゆる民族の宗教に触れることが出来たようです。高野山には高野神社もあり、日本古来の神様もキリスト教も否定しません。修行が厳しい割には他宗教には寛大だったようです。だいたい高野山は丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)の広大な山林を分けてもらった土地です。世界の宗教家が他宗教を理解するところから始めていれば争いは起きなかったのではないかと思うのですが、現在も続く宗教戦争が残念でなりません。
参拝者を募って今年2回目の高野山です。
山の入り口には高野山の大門が西に向かって建っています。ここを潜ると山林に別世界が広がります。
まずは東(奥の院)に向かって大門に合掌します。ご参加いただいた皆様には感謝いたします。
花蔵院、宝寿院の高野山での仏縁は西南院さんと決まっています。祖父は頻繁に西南院さんに宿泊して奥の院にお参りしていました。
高野山で修行をする際には高野山内にある宿坊の上綱(じょうご)さん(住職のこと)が保証人になることが条件です。兄も甥も保証人は西南院の上綱さんでした。
昔は修行が終わるとお世話になった宿坊で、さらに2~3年仏事の経験を積むのが常識でしたが、今は種智院大学に進学したり、実家の寺に直帰したり区々のようです。
西南院さんの入り口に咲く楓は有名で、パンフレットには度々紹介されます。また、何処の寺もそうですが、宿坊の中庭には整備された日本庭園があり綺麗です。
父と母の法要でみろく会に参加させていただきました。
高野山大学を卒業されたご住職の供養塔だと聞いておりますが、祖母の遺骨もここに分骨してあり、今回は父の遺骨を分骨させていただきました。
甥の清良も今回は宝寿院正住職として参加しました。私も一応会員なので参加させていただきましたが在家です。
先月の中頃ですが、高野山の常喜院さんに伺いました。
常喜院は高野山金剛峯寺に一番近い宿坊です。道路を隔てた向こう側には福島正則が寄進したという金剛峯寺の「六時の鐘」(鐘楼堂)があります。ここを左に向かうと大東に続く緩やかな蛇腹道になります。
常喜院さんのご本尊はここに一体しかないというお地蔵様の座像です。朝の本堂勤行はまだ薄暗い頃に始まりますが、本堂を出る頃には美しい朝の紅葉が見られます。中庭の向こう側は蛇腹道の紅葉です。
このときはまだ紅葉が始まったばかりでした。
石山寺には古来より文学者が多く参拝されました。中でも紫式部は石山寺に参籠中に源氏物語を起筆したといわれており、入り口に美化された紫式部の看板が掲げてありました。
起筆というのだから当然他の庵でも執筆していたという伝説はいくらでもあります。1004年に紫式部が石山寺に参籠した際琵琶湖を望む石山寺の高台から十五夜を眺め、閃いたのが、「今宵は十五夜なり」という源氏物語の書き出しの部分だそうですが、滞在期間は7日間のようです。現在瀬田川の清流を見下ろす高台には後白河天皇の王座とされる月見亭と芭蕉が仮住まいとした芭蕉庵があります。
芭蕉は滞在中に
『石山の 石にたばしる あられかな』
『あけぼのは まだむらさきに ほととぎす』
など数々の俳句を残しましたが、現在は建物が多くて琵琶湖のほとりは見えません。
石山寺は747年に開山、その頃は東大寺と同じ華厳宗でしたが、空海と最澄が中国から真言密教、天台宗の密教を持ち帰った頃から仏教の歴史が変わり平安時代には石山寺も真言密教の道場として頭角を現すようになったそうです。
中腹には本堂の他、西国三十三所札所の観音様が祀られている観音堂、毘沙門堂、蓮如堂、弘法大師と初代開山者の良弁僧正、第三世淳祐内供の遺影を安置する御影堂、源頼朝が建立した多宝塔などがありました。
ここは撮影しただけなので、さらっと参りました。
琵琶湖の水を流す瀬田川のほとりに位置する石山寺は、珪灰石の大きな岩の上に作られた寺院で、747年聖武天皇の勅願により建立されました。
平安時代には真言密教を伝える寺院(西国第十三番札所)となり、数多くの貴族や女流文学者が参拝しております。
境内に2月は梅、4月は桜、5月はツツジ、11月には楓と四季折々の花が開花する花の寺としても有名ですが、この時期はあいにく紅葉には少し早い時期の参拝でした。
因みに岩場に建立された石山寺の山の上にはトイレはありませんでした。オーストラリアのエアーズロックのような1枚岩ではないと思いますが、岩盤に下水を作るのは難しかったのではないでしょうか。
今月甥の清良(きよなが)が無事晋山式を終了しました。これからは清良(せいりょう)と名乗り、宝寿院の正住職となります。
これもひとえに宗派を同じくするご近所の御住職と檀家様のおかげです。
高野山のみろく会には先週報告に行って参りました。
明日は花蔵院の檀家総代として再度高野山に伺います。今更ですが、こんなに寺に関わることになるのなら、私も若い頃に得度だけでもしておけばよかった。
神奈川県立歴史博物館で、兄の寺(宝寿院)にある桜観音堂十一面観音菩薩立像が展示されているので、仕事の合間に行ってみました。
足柄の仏像展だからなじみの深い寺も多く、隣で鑑賞していたグループは、南足柄市にある弘済寺の檀家さん御一行のようでローカルな話題を連発していました。
桜観音堂十一面観音菩薩立像は頭部に十二面の頭上面を表すめずらしい観音像です。中国南北朝時代の記録には十二面に変化した観音像の説話がありますがやはり珍しいようです。楠で作像された観音像も珍しいようですが、楠は地元に多数自生しているので、地元の仏師が地元の木材を使用して作像したのかもしれません。等身大で整っている延命寺さんの薬師如来立像の隣に展示されていたので、ちょっと頭が大きい観音様はかわいらしく感じました。もしかしたら単純に頭にスペースがあったので、十二面になってしまったのかもしれません。
北条時頼候は日本で初めての禅宗寺院である鎌倉建長寺を建立したことでも有名ですが、地元の寺への貢献度も高かったので、最明寺の北条時頼座像も展示されていました。余談ですが、高野山には小田原藩主である北条早雲ゆかりの小田原という地名が現在も残されています。
宝寿院は元々最明寺さんの門前寺だったので、最明寺が松田山山頂にあった頃は宝寿院で参拝してから最明寺に登っていたようです。現在最明寺は大井町の平地に移転し、最明寺跡は桜のきれいな公園になっています。
展示物は写真撮影禁止だったので、博物館の外観とお土産品だけ撮影して、後はパンフレットからコピーしました。
今年の夏は本当に暑かった。水不足にはならなかったが毎日マメに水をやらないと野菜はすぐに枯れてしまった。蜜柑はカミキリムシに幹を食われて瞬く間に黄色くなって枯れてしまった。大丈夫だと思っていた鬼ゆずやネーブル、ハッサクも今週になって実が落ち始めた。11月まで持たそうと思っていた紅アズマと金時芋も葉が枯れ始めたから来週には収穫しないといけない。
ギリシャ神話に海で亡くなった夫婦,アルシオーネ(Halcyone・ハルシオンのギルシャ語読み)とケーユクスを憐れんで,風の神で父親のアイオロスが毎年冬の訪れる7日間だけ風の吹かない穏やかな日を与えたというのがあります.それ以来平穏無事でうとうとするような穏やかな日々をハルシオンデイズ(Halcyon Days)とよぶようになったそうです.アルシオーネも日本でいうけい子さんはな子さん同様にギリシャ神話ではよく出てくる名前ですし,どのような発音をしたのか今では分かりませんから語源の由来は定かではございませんが,睡眠導入剤のハルシオンも薬理効果から考えて,恐らくギリシャ神話から命名されたのではないでしょうか.
7日間とはいきませんが,秋は風も雲もない穏やかな天気に恵まれます.こんな日は富士山に登って日の出を撮影したかったのですが,皆さんから与えられた宿題の作成に追われて近場からの撮影で済ませてしまいました.写真は先週撮影した花蔵院のお墓と蜜柑畑からの富士山です。初冠雪も撮影しましたが配信しませんでした。
久々の足柄峠、車で30分程度だから以前は足繁く通っていたのに最近は写真もあまり撮らなくなってしまった。雑務に追われているという理由もあるが年を取ったのだと思う。
中学時代の同級生を連れて西丹沢の最明寺公園に蕨狩り、今は蕨も筍もピークは過ぎましたが、山蒜がすごい、噛まれた人は結構重傷でした。噛まれなかった人には何か共通点があるのだろうか?
ソメイヨシノにそっくりな・・・実は佐藤錦です。通常のソメイヨシノより3週間くらい早く開花しますが外見ではソメイヨシノと見分けがつかないので、患者さんからは「なぜ開花宣言より先に開花するのか」いつも聞かれます。もう一つの違いは6月になると鉢植えでも立派なサクランボを実らせてくれることです。
南足柄の春めき桜は南足柄が発祥の地だそうです。
花弁が多いのが特徴で、満開に開花した桜も見応えがありますが、そよ風にたなびいて散る桜吹雪が圧巻です。
但し南足柄は西に金時山や矢倉岳があることから夕暮れが早いので、朝撮りの方が映えます。
特に私は人ごみが苦手なので、朝しか撮影できません。
何週間か前の西平畑公園、通称子供の館の河津桜です。
忙しくてアップするのが今になってしまいました。
その数日前まではまだ蕾状態だった河津桜がこの日一気に開花しました。
フォトギャラリーを配信している暇はないのだけれど忙しくなればなるほど雑用がしたくなるのは私だけでしょうか
写真はまだ1月2日、明神岳に到着したのは10時30分くらい、ここから日テレのクルーが待機する明星岳まで移動しますが、11時を過ぎると尾根伝いの緩やかな登山道も霜柱が溶けて泥沼になります。登りも下りもつらい道になりますが、スピードの調節がきかない下りは特に危険です。私は2年前に滑って左小指の筋断裂?で1ヵ月くらい固定して過ごしました。今回も2回ほど滑りましたが、大事には至らず、無事明星岳に到着しました。
2日間で、たった10分程度の映像を撮影するために荷物はヘリで空輸、クルーは自力で登るそうです。12時頃まで世間話をしながらリアルな駅伝情報を伝えてくれました。お礼を言って大文字焼きの大の字の所まで下山しましたが、やはり遠すぎて駅伝選手の姿は見られませんでした。上空には2機のヘリが旋回していたので、手を振ってみました。一瞬でも撮影されたでしょうか。
幻のスキー場跡は両側に杉が植林されて道幅がずいぶん狭くなりましたが、霜柱が溶ける前に通り過ぎれば普通に登れます。しかし、後1時間もすればぬかるみの泥沼状態となって、真ん中を歩くことはほとんど不可能です。
2時間半くらいかかったでしょうか、やっとの思いで箱根明神岳の山頂に到着しました。登りはじめは雲一つ無い富士山だったのに、山頂に到着したら富士山は雲に隠れて手前の金時山(旧猪鼻岳)しか見られませんでした。東側も空気がどんよりして江ノ島すら確認できませんでした。久々に空気の澄んだ相模湾を撮影したかったのに残念です。
元旦は7時から花蔵院で檀家さんの応対です。宝寿院と兼務している兄が来るまでですが、初日の出と富士山の撮影はできそうにありませんでした。
3日は休日急患診療所の当番なので、朝自宅からきれいな富士山が見られた2日に箱根明神岳に登ることにしました。
出発地点の大雄山最勝寺はまだマイカー規制中ですから、大雄山駅からバスで20丁目に向かい、ここから徒歩で箱根明神岳を目指します。途中杉林の切れ目から相模湾、江ノ島、左には伊勢原の大山が望めます。この時間にはまだ箱根駅伝のランナーは茅ヶ崎まで来ていません。地面の霜柱が溶け出す11時までになんとしても頂上に到達したいものです。
謹賀新年
2023年の新しい年を迎えました。
昨年は雑務に追われて皆様方には多大なご迷惑をかけてしまいました。(FBの配信も暫く休止しております。)
失礼ながら賀状でのご挨拶は省略させていただきました。
皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。
もう少し高い位置から初冠雪を撮影しようと思って東名高速を越えて農道を上がってみたら途中でハクビシンに出会ってしまいました。
車の前を横断していたのですが、思った以上に歩くのが遅かったので、車から降りて何枚か撮影してみました。
実は先週大野山に蕎を食べに行く途中でイノシシの子供にも会いました。(こちらは写真が撮れませんでした。)トイプードルほどの大きさで、元気に飛び回っていましたが人が来たらすぐに草むらの茂みに隠れてしまいました。うっかり近寄って草むらをかき分けたら大量の野ヒルに血を吸われて大変な目に遭いました。(昨年までは大丈夫だったのに大野山も野ビルに占領された。)
どちらも野生動物ですからどんなにおとなしくてもさわったり、深追いはしませんでしたが、最近は野生動物が民家や畑に近くなりました。丹沢の餌が減ったとは思えないのですが、畑を放棄する農家が多いので、食べれるものの多い里村に下りてくるのでしょうか。
ハクビシンに気をとられて気がついたら富士山の初冠雪はずいぶんと薄くなった様な気がします。ほんの30分くらいの出来事でした。
ハクビシン(白鼻芯:Paguma larvata)は、ジャコウネコ科ハクビシン属に分類される食肉類。本種のみでハクビシン属を構成する[3]。その名の通り、額から鼻にかけて白い線があることが特徴です。日本に生息する唯一のジャコウネコ科の哺乳類で、外来種であることは分かっているが移入時期についてはさだかではない。そうです。
朝起きて畑に行ったら富士山の山頂部分がうっすら白くなっていました。
今年の初冠雪もそろそろかなと思っていましたが、甲府気象台から確認できないと初冠雪とは呼ばないそうです。
念のため昼まで待って昼のニュースで確認したので、今年の初冠雪を配信することにしました。
せっかくですから色づき初めて早生蜜柑と撮影したかったのですが、早朝ですから手前にはまだ日が射しておらず、撮影には思いのほか苦労しました。
畑に日が射すのもずいぶん遅くなりました。
うっとうしい雨が毎日続く合間の晴れに撮影した彼岸花です。9月の4日くらいだったかな?彼岸花が咲く前に草刈りはギリギリ間に合いましたが、あっという間に満開になった彼岸花のいくつかは台風で倒れてしまいました。それでも元気よく咲いて、墓掃除に来る檀家さんの目を楽しませてくれます。お彼岸が過ぎる頃には散っていると思います。
また栗の季節がやって参りました
宝寿院(兄の寺)の墓地にある栗の木はご近所から苦情が多いので、毎年9月初旬には収穫してしまいます。
収穫した栗を兄から2kgくらいもらったのですが、仕事が忙しかったので、とりあえず茹でて冷凍にしておきました。剥くのには技術と根性が必要なので、手の空いたときに覚悟を決めて一気に剥くことにしました。渋皮まで綺麗に剥くコツはいろいろあるようですが、おもいっきり冷凍にした栗を10~20個くらいずつ時間差で常温に出して、秘密兵器のくりくり坊主(ペンチのような道具)で一気に剥離することです。冷凍庫から出した栗は常温にさらすと実と渋皮に温度差が生じて5~15分くらいの間が一番剥離しやすくなるようです。栗おこわにもしてみましたが、当然消費しきれないので、栗羊羹も作りました。時間がなかったので、粉寒天を使って水飴は使いませんでした。甘さは控えめにしてあるので、従業員からの評判も良いのですが、皆さん渋皮剥きや鬼皮剥きは苦手のようです。今のところくりくり坊主が最終剥離鉗子だと思っていますがネットで調べるとむき方はいろいろあるようですが、薬剤に頼らず、温度変化による物理特性を利用した剥き方が多いようです。https://www.youtube.com/watch?v=ProG9I18ErM
本日は朝5時起きして野菜畑の草むしりをする予定でしたが、久々に雲のない富士山だったので、丸山と畑から富士山を撮影してみました。
11時から東京に行かないと行けないので、炎天下必死に草むしりをしてシャワーを浴びて新幹線にギリギリ間に合いました。相変わらず心に余裕がないので、富士山の写真もインパクトに欠けるな~、
ああ~こんなに天気がいい日は何もかも忘れて富士山見ながら山歩きがしたい!
14日は台風一過でした。夜中に3ヵ月もかかってしまった依頼原稿の初稿が上がったので、久々に足柄峠に写真を撮りに行きました。写真をFBにあげるのは何ヶ月ぶりだろう。山に登っていないわけではないし、毎日寝てないわけではないけれど、心に余裕がないと写真が撮れなくなってしまいました。年をとったものだと熟々感じます。
肝心の富士山にはまだ雲がかかっていて青空をバックに朝焼けの富士山は撮影できませんでした。雲の流れが速いので、40分待ちましたが、日が当たるのは手前の雲のみでした。雲は切れずに赤富士も見られなかったので、後ろの矢倉岳に昇る朝日を撮影して帰ってきました。朝日が昇る東にも雲があると富士山も赤くならないようです。母の新盆なので、これから花蔵院でお留守番です。